7.31白井 聡氏の

東京五輪2020」で露呈したこの国の統治の崩壊を振り返る現代ビジネス

再生の手段はどこにあるのだろうか。それは当然、公正性への感覚を取り戻すことにある。素朴に「東京五輪は楽しみだ」と思ってきた人々も、その実存が問われているのだ。れたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判東北の大震災と未曾有の原発事故という危機に対して「東京でオリンピックを!」という回答が出されたことの異様さ、そこに何か途轍もなく腐ったものがあることを直観する感覚がなかったとすれば、そこにこそ問題があるはずなのだ。  大会前は「楽しみだ」と思っていた多くの人々が、いま「だまされた」と感じているだろう。しかし、伊丹万作が敗戦直後に書いたように、「だまされた者」は無罪ではない。伊丹はこの上なく理路整然と次のように述べている。「だまされたものの罪は、ただ単にだまさ力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」(「戦争責任者の問題」)。  伊丹は、「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである」とも書いている。この「不安」は的中したのであり、その帰結をいま、われわれは目撃しているのだ。  再生への出発点は、不正への怒りだ。われわれが自分たちの社会に対して責任を持ちたいのならば、必要なのはあの「ムシャクシャ」を圧倒する怒り、怒髪天を衝く怒りだ。そこにしかわれわれの希望は存在し得ない。

 

わたしたちは利他的であることにより、全員が利益を得ることができる

「アリの一言」より転載

わたしたちは利他的であることにより、全員が利益を得ることができる。それがコロナ危機の教訓の一つなのだ」(23日付中国新聞=共同掲載の論稿「コロナワクチンの偏在」)

 

 最上敏樹国際基督教大名誉教授(国際法)も、コロナ禍の当初から、国家の強権発動を待望する傾向が一部にあることに対し、逆に問われるべきは「デモクラシーの問題である」とし、「この危機への対処に大きな責任を持つ人々、とりわけ(菅)首相や(小池)都知事の発言の中で、「民主主義」あるいは「デモクラシー」という言葉が使われたことがあったか」と指摘し、こう主張していました。

「来るべき世界は、何の分野であれ無用の敵対的競争を抑制し、自然とも和解し、人間が境界を越えて共生する世界であるだろう。…それは他者と共に生き残ることを本気で構想する≪利他的生き残り≫の哲学に立ったものでなければならない。…昨日の世界の回復ではなく、新しい世界に向けた再出発が、いま必要になっているのだ」(最上敏樹氏「世界隔離を終えるとき」、村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』岩波新書2020年7月所収)

 コロナ禍の不安は拭えませんが、それでも、それだからこそ、これを奇貨として新しい世界を目指す必要があります。その基盤は、自分や家族の安心・安全だけでなく、社会的弱者・マイノリティを含む日本中の、そして途上国をはじめとする世界中の人々の安心・安全・幸福を求めること。「他者と共に生きることを本気で構想する<利他的生き残り>の哲学」に学びたいと思います。

「ちょっとした優しさ」と、それをどこへ向けるか

5月3日 「アリの一言」より転載

 

終バスが行ったあとの渋谷バス停で、座って体を休める路上生活をしていた大林三佐子さん(当時64)が、近所の男に殴打され死亡(2020年11月6日)して、半年になります。

 大林さんは広島市生まれ。小さい時から人と接するのが好きで、広島にいるときは劇団に所属していたこともある(写真右)。27歳で結婚して東京へ。しかし1年で離婚。理由は夫の暴力。コンピュータ関係の会社に勤めたが、30歳で退職。数年ごとに転職を繰り返した。
 10年ほど前から、短期契約のスーパーなどの試食販売員で食いつないだ。日給約8000円。給料が出るとすぐにコンビニで電気代やガス代を払っていた、と親しかった同僚は言う。

 毎年クリスマスには郷里の母親と首都圏に住むただ一人の弟にカードを送った。かわいいイラストを手書きして。そのカードが4年前から届かなくなった。同時期、大林さんはアパートから出た。家賃が払えなくなった。キャリーケースを持ち歩く生活になった。

 「試食販売で自分で生活を立て直そうとしていた。けれど、頑張っても頑張っても、はい出せなかった。アパートを借りることもできなかった」(元同僚)
 その試食販売の仕事も、コロナ禍でなくなった。

 

 路上生活者を支援しているNPO代表―「路上生活者は助けを求めにくい。とくに女性は人に声をかけにくい。怖いから」

 事件前からバス停で大林さんを見かけていたという近所の男性―「どうすることもできなかった。ちょっとした優しさが何になるかわからなかったし」

 実父からの性暴力で家を出てホームレスになり、SNSで知り合った男性の家を転々として暮らしていた21歳のK さん。大林さんが亡くなったベンチに花を供え―「(路上生活者にとって周りは)別世界なんです。私はこの世界にはいない…。自己責任と言われる社会。その人(大林さんのような人)を見つけることができない社会なんです」(K さんは去年夏からSNSで見つけた支援団体の援助でアパートに入居)

 

 結婚から死に至るまで、大林さんの人生はこの社会の女性差別に貫かれていました。コロナ禍がそれを助長しました。

 「なぜ助けを求めなかった」。残念な思いからつい言ってしまいそうな言葉ですが、それはベクトルが逆でしょう。「夜道は危険。痴漢に注意」の標語同様、被害と加害が逆転しているのではないでしょうか。

 「ちょっとした優しさが何になる」。たとえ何もできなくても、「大丈夫ですか?」と声をかけるだけで、大林さんの孤立感はいくらかでも和らいだのではないでしょうか。

 考えたいのは、「ちょっとした優しさ」をどこへ向けるかです。

 大林さんの姿を見かけていた人の中で、行政(区役所)に知らせた人はいたのでしょうか。「路上で困っている人がいます。支援を」と。警察は巡回で大林さんを見かけていたはずです。知っていながら見て見ぬふりをしていたのではないでしょうか。

 問うべきは行政・政治の責任です。市民の「ちょっとした優しさ」は行政・政治への突き上げに向かうべきです。路上生活を支援する若者が増えているのは素晴らしいことです。が、その気づき、「優しさ」は政治・行政へ向けられてこそ生かされるのではないでしょうか。

 「自助」「共助」の危うさ。「自助」と「共助」は紙一重です。問われるべきは「公助」です。いいえ、「公助」という言葉自体、トリックです。公(政治・行政)が市民の命・生活を守るのは援助ではなく責務です。「公助」ではなく「公責」と言うべきです。

 首相が就任後初の所信表明演説で「私が目指す社会像は、自助・共助・公助」(2020年10月26日、菅義偉首相)と、「公助」よりも「自助・共助」を前面に出してはばからない日本。大林さんの死が問いかけているのはそんなこの国のあり方です。

 

「大きな主語ではなく、小さな主語で語っていくことが大切」

「大きな主語ではなく、小さな主語で語っていくことが大切」

フォトジャーナリストの安田菜津紀さんの言葉です。

 

 

「国民」「国益」とかいうときに、生きている「一人ひとり」にとってどうなのかに常に視点を当てて考えることが必要だと思う。

内田樹先生のブログより

コロナのせいで、高校生にとっての「楽しいこと」は全部なくなった。修学旅行も文化祭も運動会も部活もなくなった。さらに全国一斉休校の余波で、彼らはその後「詰め込み授業」を強いられている。7限まで授業をしないと学習指導要領の要求を満たせない。生徒たちが授業内容を理解しているかどうかよりも終わらせることの方が優先する。授業が理解できない生徒たちを個別的にケアするだけの余力は疲れ切った教員たちにもない。そうやって落ちこぼれた生徒たちは教室にいる理由を見失う。それが自殺が増えたことの一因ではないかという話を高校の現場の教員から聴いた。厚労省は高校生の自殺増加の主因を「進路の悩み・学業不振」としているが、それではあまりに説明が足りないのではないか。

政策責任者に懲役刑を

感染が確認されて入院の勧告が出たにもかかわらず、それに従わない人に懲役刑を課すなら、感染が確認されて、入院措置か宿泊療養施設への収容を希望するのに、何らの手当ても受けることなく放置される場合には、放置をもたらす政策責任者に懲役刑を科すことを検討すべきではないか。